ギャン・バギャム・ソルドン

一打粉砕に怒喝の心力を込め、万物を叩き割る剛剣の刃を生み出さん

何を心の支えとしようか

この1週間めっちゃ暑いのもあって、だら~~~~~っと過ごしてました。研究を頑張るって3ヶ月くらい前の僕が決めたのもあって、その時に発した言葉がまるで呪いのように今の僕の心に重くのしかかってくる。言ったことは貫かないとなとダメだと思って、半ば自分自身を騙しながらパソコンの前に座っても、当然やる気のようなものは出ない。

そんな中で今日4thライブの当落が発表されて、何か結果を見てから精神力の回復具合がもう半端じゃなくて。それでやる事を終わらせて、今この文章を綴っているところです。

結局、自分はAqoursに心を支えてもらいながら生きてるんだな~とクッソ実感しました。チケが当たったことは勿論めちゃくちゃ嬉しいんですけど、こうしていつか無くなってしまう存在*1を心の支えにする事って果たして良いことなのかな~って疑問に、少しだけ胸が痛くなったりもしています。

ラブライブ以外にも好きなもの(心の支えになるようなもの)は作りたいとは常日頃から思ってて、ラブライブにハマってからも色々な物に触れるようにはしてるんですよね。けど、どれもラブライブには届かなかったし、娯楽として面白いだけで、自分の中で大切にはならなかったものが凄く多い。これって、良いものを知ってしまった代償なんですかね……どうなんだろ。

詰まるところ、何か支えが無いと心は自立出来ないのかもしれないなぁ~…と思ったので、ラブライブ以外の何かを探しながら今は生きてるのかもしれないです。僕の見てる世界なんてまだまだ狭過ぎて笑っちゃうレベルなので、もっと色んな事を見て、聞いて、知りたいな~って思います。

最近は山登りとか楽しそうだから、やってみよっかな~って願望はあります。歩くの好きなので。(完全にヤマノススメの影響を受けてる)(まぁ、言っても学生のうちは金銭面で辛さMAXなので、勉強し得だなって気持ちはあるんですけどね。)

いつものセカイが隠してる扉を探す日々です。

*1:アニメやキャラクターとしてAqoursは永遠に残り続けますが、新しいアニメーションの供給は無くなるだろうし、声優グループとしてのAqoursもいつかは本格的な活動を終えるって意味です。

アニメ見るやーつ

研究テーマが具体的になるにつれて、本当にこんな事できるのかよ……となってしまう不安に苛まれてます。という訳で、この1週間くらいは現実逃避も兼ねてアニメを見まくってました。丁度夏アニメの1話がバンバン放送される時期とも重なってまぁ~~~楽しかったすね。

誰の唾も付いていないアニメを見るのやっぱ好きだな~って。そのアニメはもしかしたら、自分の人生にガッツリ影響を与えるような作品になるかもしれないし、はたまた"作品の理念"が気に入らな過ぎてクソクソクソ!って貶すかもしれない。『はい、虚無。』で終わる作品って場合も沢山ある。誰の意思や考えにも左右されずに、ただ己の中にだけ存在する美学に基づいて目の前の芸術に対して価値判断していく、これがクッソ楽しい。ただアニメ見て面白いかそうでないか決めるってだけの話なんだけど、こういう書き方をすると凄く贅沢な遊びに見えるね。

こういう数多の価値判断を通して、自分の好き嫌いが見えてくるのも楽しい。もっと言うと、自分の考え方とか心の構造のようなものが見える気がする。自分より外側に存在する物に触れれば触れるほど、"自分"が見えてくる、これが堪らなく好きなんすね。

僕は自分という人間が何者なのかをもっと知りたい。自分を知るって目的でアニメを見てる訳じゃないけど、少なくとも見る理由の1つにはなってるのかな~とは思う。

そんな訳で今期もアニメ見るか~~~となっています。ぉゎり。

 

因みに今期だと僕はレヴュースタァライト、異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術はねバド!がすこすこです。劇場版アニポケもかなり良かったすね。

漫画読みの翁

はねバド!、結局全部読んでしまった。アニメやってる時に原作を読むことは余りしないんだけど、3巻まで無料とか言われたら読んでしまうわな。そっからズルズルと引き摺り込まれてしまった。

めっちゃ面白かった。才能のある人間はその才を開花させる為に努力したって事や、才能のある人間をそうたらしめているものは、間違いなくこれまでに積んできた努力だという事。才能という言葉は時にその努力を蔑ろに否定してしまうという事。この辺がグサッと来たかな。

当然負ける側にも物語があったり、口うるさいけど教え子に勝たせたい一心のコーチとか、強い奴だけじゃなくて中途半端な気持ちで部活をしてる奴が居たりとか、当たり前にある事が当たり前の様に描かれてて凄く良かった。5~6年前はあんなに自分の近くにあったスポーツってものが、今では遥か彼方遠くのものになってしまったなぁ~…なんて思ったりもした。

漫画で描かれている選手のことを羨ましくも思った。僕はあそこまで自分のしていた競技を好きになれなかったし、高2の頃からはこなした練習量に対して自分が本当に上手くなっている実感が殆ど無かったからだ。試合の中で相手を出し抜いた時に感じる優越感は堪らなく好きだったけど、水球って競技自体が好きかと問われたら、「まぁ好き」としか言えない。てか、好きだったら大学入っても続けてるわな。

その競技を好きで居続ける才能が存在するのか、それとも伸び続ける奴が競技を本当に好きになれるだけなのか、僕には分からない。

はねバド!を読んで、そんな懐かしい気分になってました。最近モヤモヤする事も多いし、たまには全身ヘトヘトになるくらいに運動してぇな~~~~。

他人の気持ちにどれだけ寄り添っていいのか、みたいな

上手く文は纏まらないと思うけど、取り敢えず垂れ流します。

ここ最近TLで色々な事が起きすぎて、訳の分からん精神状態に居ます。たった300人しかフォローしてないTLですけどね。(因みに昨日はまた二日酔いでぶっ倒れてました。)

こう、言葉ってやっぱり難しいなと思う訳です。俺の言いたいことは恐らく上手く伝わらないし、他人の言動を見ても何となく片鱗は掴めそうな気はするけど、結局は分からない。

まぁ、でもこれって当然のことだと思うんすね。気持ちが言葉になって、それが相手の目に触れて、そこから解釈が始まるとすると、その過程で失ったり変わったりするものは沢山あると思う。自分の外に出た言葉は相手の解釈しだいでいくらでも変わってしまう。(これは本当によく思う。)

だから誰も俺のことは理解できないし、俺は他人のことを理解できないと思いながら過ごしてる訳です。

軽率な『分かる。』という言葉にも嫌悪を覚えてしまう。*1他人が理解できない存在だと認識した上で、それでも少しだけ相手に寄り添いたいって気持ちからくる『分かる。』と、相手のことを分かった気になってる奴の口から発せられる『分かる。』には雲泥の差があると俺は思いたい。

TLにライブに行けた人、行けなかった人が居て。ライブ見てほしかったなんてのは純度100%の俺のエゴで。結局俺には何も出来ないし、行けなかった人の気持ちを想像する事すら失礼に当たるのかな…なんて思った。だって俺は行けなかった人の気持ちが分からないし、そもそも寄り添えないし、もっと言うと寄り添う資格すらない。

インターネットを通じて、他人の心の中を少しだけ覗き見出来るようになって、この辺の距離感がおかしくなってる気もする。他人の発した言葉を都合良く解釈して分かった気になっちゃいけないなぁ~…って、そんな独り言です。

*1:勿論、気持ちの強さとか思考の深さで違いが出てくるけど。

スピリチュアルやね

7月7日、親戚と飲み会をした。飲み会が終わって店を出ると、すぐ近くに手相占い師の方がいらっしゃった。『お前手相見てもらえよ』と親父が言う。珍しく親父も酔ってたし、俺も恋愛の事について聞いてみたさはあったので、貰った3000円を握りしめて椅子に座る。

 
f:id:kiui_4:20180708170619j:image

統計学を学ぶ人間としては、やっぱり非科学的な占いは信じ難いが、たまにはこういった"スピリチュアル"な物に触れるのは良かったのかもしれない。少しだけ東條希の存在を近くに感じれるようになった気もする。

 

占い師『何を見てほしい?』

僕『恋愛で。』

 

即答した。おばちゃんに手を握られて手相をガン見される。そもそも人の手に触れる事が余りないので、正直に言うとかなり気持ちよかった。

 確か、相手は出来るって言ってくれてたような気がする。正直俺が1番酔っ払ってたので、言われた事を全然覚えてないのだ。ガハハw

周りの空気を読みすぎてしまう癖があるから、空気を読み過ぎずに、自分を出して行けば相手が見つかるって言われたような気もする。根はすっごく優しい人間だから大丈夫だよとも言われてた気がする。後はルックスも良いんだから心配するなとも言われた。正直めっちゃ嬉しかったっすね。22年間彼女なしの生活を送っているので、お世辞でもそうやって言われるのは嬉しい。

結局、3000円払って元気付けられた感じです。占い師って言うよりも"肯定屋さん"って感じがしましたね。もしかしたら、東條希はµ’sを終えたあと、こうして各地で占いをしてるのかな〜と思いを巡らすと、何かいい経験だったようにも思えますね。

ぉゎり。

 

 

 

 

ブログ書き始めてから1年経ったらしい

なんか1年経ったらしいです。最初このブログの名前は『ラッシャイべた褒めブログ』って名前だったんですよね。この名前の時に既に読んでくれていたそこのあなた、古参ですよ。おめでとうございます。今度会った時に金麦買ってあげます。

誰にも読まれることは無いんだろうな~って気持ちで最初は書き始めたので、今のこの人に読まれてるって状況はある意味では予想外です。Twitterがあるこの時世にわざわざブログを書く人って僕の周りでは少なくて、最初の記事を投稿するのが小っ恥ずかしくて、わざわざ深夜3時に投稿して。意を決してTwitterにURLを貼ったら、あの時間にも関わらずそれなりの人が読んでくれて。あの時の嬉しさは多分この先あと1年くらいは忘れないかもしれません。

最初は普通に三日坊主で終わると思ってたんだけど、次第にラブライブ以外のことも書くようになって、今では普通に日記としても機能してます。と言うか、ブログを通して文字を綴ること自体の楽しさに気付いたのが、1番大きいですね。

って感じで、まぁこれからも僕らしく、片手間にぼちぼちやってくっかな~って感じはしてます。

ぉゎり。

 

 

オタクセイク

オタクと酒を飲んだ。何だかんだ4年程付き合いがあって、今でもたまーに集まってはアニメの話をしながら酒を飲む。3年前は集まったオタクの殆どが学生で『明日3限からだわ~』みたいな会話もしてたけど、今となっては学生は俺だけになってしまった。時経つの早すぎワロタ。俺が東京ミュウミュウにハマってたり、Go!プリンセスプリキュアを見てたりしてたのが3年前なのマジ!?てか俺も来年社会人になっちゃうのヤべぇな…。

拙者、世間話がからっきしに出来なくてバイト先では『おはようございます』と『お疲れ様です』以外の言語を話さないんすよね。自分の興味ある事しか話せなくて飲み会とか普通にクッソ苦手なんすけど、オタクセイクはやっぱり話が別なんすね。

つっても、みんな同じ作品が好きみたいなのはほぼ無くて、わいわい各々があーだこーだうるさく色んなアニメの話してるだけ何だけど、楽しいんすよね。だからか『アニメを他人に薦める事は不毛なのか?』みたいな割と抽象的で個々の作品の世界に囚われない、広い話が出来たりして、面白いんすよ。

後、やっぱりface to faceのやり取りはクソ楽しいっすね。最近キャスで口を開く機会が多いんだけど、顔合わせた時の楽しさには1歩届かないわな。無意識に身振り手振りとか大袈裟な抑揚の付け方とか出ちゃうし、何より酒が俺のクソカス人間の側面を晒し上げるのでありがたいっすね。

という訳でオタクは俺と軽率に飲酒しましょう!

 

TVアニメおひさるBOOK2を読み終えて。

 

ラブライブ!サンシャイン!! TVアニメオフィシャルBOOK2
 

 ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメオフィシャルBOOK2、率直に言うとすっっっごく良かった。公式から出る本は、所謂正しい解釈とか、アニメの受け取り方の正解みたいな立ち位置に自ずとなってしまうけど、そういう類の"正しさ"が全くなくて、こっちの受け取り方を尊重してくれてる事がインタビューからハッキリと伝わってきた。そして、何よりも純粋に"愛"が詰まっていた事が、僕がこの本を素晴らしいと感じた所以なんだと思う。

 酒井監督を始めとした製作者方の話はオタクとして為になる事だらけで、リアルな事情が垣間見える面白い裏話も聞けて大満足だったし、監督自身もキャラの内面と向き合って答えを出していて、ちょっとだけ親近感を覚えたりもした。苦労の裏には確かな愛と情熱があって、少し涙ぐんだり。ファンが作品にぶつける熱と、製作者の方が作品にぶつける熱のベクトルの違いを僅かに感じながらも、敬意とか感謝とか、色んな感情が僕の中に渦巻いていた。

サンシャイン!!のアニメを作ってる人達、本当にカッコいい。間違いなく僕の目には輝いて見える。インタビューを受けている方は僕の2倍かそれ以上生きてる人達だし、言葉の選び方も丁寧で、どこか含蓄があって。大人ってかっけぇなぁ…って、自分のしてる仕事に誇り持ってそうなところとかさ。TVアニメ製作、めちゃくちゃ大変だったんだろうな…ってのは実感は伴わないけど、少しだけ分かる。でも、終わった後に激動のアニメ製作を振り返って『あの時はめっちゃ大変だったけど楽しかったなぁ…』って思ってそうなところが、サンシャイン!!じゃん…って思ったり。なんか羨ましい。

さっきも書いたけど、自分の仕事にこだわりや誇りを持ってる人達って、とんでもなくカッコいいな〜…って。自分はまだ学生だけど、もっともっと先、10年後、20年後、そんな大人になって居たいな〜…と言うのが、この本を読んで1番強く思った事です。本の具体的な内容よりも、俺はそんな事を感じてました。

ぉゎり。

 

僕とAqoursと時々10

ここ最近TLでWBNWの10!について色々と語られている、と言ってもいつまでもぐちぐちとあーでもないこーでもないと考えているのは自分だけかもしれないけど。

この10!に関すること、結局自分たちの取れる行動としては 言う or 言わない の2通りしかないけど、この議論の背景には個々のサンシャインの物語の解釈の違いだけでなく、Aqoursとその人の距離感、10人目のAqoursという外延のハッキリしない言葉の捉え方の違い等があるのではないだろうか。いやうん、多分ね。

 自分はあの瞬間10!を言うって選択肢が頭の中のどこにもなくて驚いたのだが、人の考えを見て思うところがあったので自分なりに考えてみる。無意識のうちに10!を言わなかった自分が取った行動の後ろにあった理由を探ることにする。文が散らかることが目に見えてるのでQ&Aで書こうと思う。

 

Q. 何故あそこで10と言わないのか?

A. あの歩道橋のシーンは9人だけのもので、物語の観測者としてでしか見ることの出来ない景色だ。そこに自分が易易と立ち入ってはいけない雰囲気を感じ取ったから。

 

 ここまではただのアニメの話である。だがライブは現実で、ラブライブのライブは所謂2.5次元ライブと呼ばれている。ここからは3次元のAqoursも織り交ぜて色々と考えてみる。

 

Q. 何故立ち入ってはいけないと思ったか?

A. 怖いからだ。Aqoursのキャストは物凄い存在だ。顔も可愛けりゃ歌にダンス、芝居もこなす、立ち振る舞う姿の気品や、役者としての考え方、何から何まで尊敬せざるを得ない。そんな凄い存在だからこそ物語には説得力が生まれる。だが、Aqoursは凄すぎる。10人目のAqoursとして名を名乗る事の重さを、この身をもって、肌で体感してしまうのがライブという空間だ。仮にAqoursがそれを許してくれたとしても、自分が納得出来ない。

 

Q.じゃあAqoursは遠い存在なのか?

A. そういう事になる。だが、Aqoursは自分達の近くまで来てくれる事が度々ある。Landing action Year!!や太陽を追いかけろ!がその最たる例だ。曲の雰囲気は明るいし、何よりも『会いに来たよ!』『おいで!』『着いて来い!』ってメッセージが曲、歌詞からひしひしと伝わってくる。この時だけ僕は自分の存在を棚に上げて、怖さも何も感じずに安心して10人目のAqoursとして居れるんだと思う。自分勝手な10!である。

6/25 追記。

謎解きに行った時の事を思い出した。多分殆どの人が掛け声の場面で10!と実際に、また心の中で叫んだのではないだろうか。僕もその一人である。恐らく、僕が今まで最も胸を張って10!と言えたのがあの瞬間だったと思う。

何故、胸を張って10!と言えるのか?それは助っ人としてAqoursと共に同じ時間を過ごしたからだ。問題を解くに連れて『自分はここに居ていいんだ、Aqoursの隣りに居ても良い存在なんだ。』って自分の居る意味を見出す事が出来る。これがもうめちゃくちゃ大きい。

Aqoursが9人であるという認識は多分、僕の中で簡単に変わる事は無いんだと思う。けど、あの時、トランクを10人で探したあの時間だけは、自分が円陣の中に入る権利を得たような気がしたんだ。

Aqoursと同じ目的を追いかけるか、違う目的を追いかけるか。10!を言うか言わないかの境目には、そんな感覚が潜んでいるのかもしれない。

 

Q.Aqoursの物語は遠いのか?

A.近いのかは正直よく分からない。1期の時は憧れを追い続ける高海千歌に自分を重ねたりもしたが、自分だけの輝きに気付いた後の物語を見るうちに自然と自分とキャラクターを重ねる事はしなくなった。10!と言わない理由の1つに物語の観測者である事を意識していると書いたので、恐らくAqoursの物語には傍観的な立場にあると思う。飽くまでもそれはAqoursの物語であって僕の物語ではない。ただ、一つだけ確実に言えるのが、Aqoursの物語は自分の中で生きてるという事だけだ。Aqoursの物語に感化され、前を向く元気や勇気を貰った事実だけは、この胸にある。これが近いのか遠いのかは、判断がしにくい。

 

もう少し踏み込んでみる。

 

Q. Aqoursは9人?9人じゃない?

A.これに関してはハッキリと自分は9人であると言ってしまう。

あの9人が作る輪の中に僕が入り込める余地は1mmもなくて、でもそれが何故かとても愛おしくて。

3rdライブ。 - きういノート 

 MIRACLE WAVEを見て感じたことだ。ラブライブは感情に嘘を付かないアニメだから、僕がこの感情に嘘を付く訳にはいかない。お互いを見ながら、一所懸命に歩んできた時間が円陣から感じられた。9人だけの間に流れている感情や空気、時間がとてつもなく尊く感じられたのは紛れもない事実だ。彼女達が過ごしてきた時間の中に僕は一切存在しない、それでも良い。いや、だからこそ良い。この景色を見れる事が既に奇跡であり、僕は心の底から満足しているのだから。MIRACLE WAVEを見た後では、恐らく僕は口が裂けても10!とは言えないのだろう。

 

書いてて思ったけど、これが1番の理由になっていたのかもしれない。

 

Q.じゃあ10人目のAqoursってなんだろう? 

A. "10人目のAqours"はAqoursの9人とは切り離された、同じようで違う概念だと思う。アニメは画面を通してでしか見ることが出来ず、ライブはお金を払って"客"として観劇する事しか出来ない。冷めてるようだけど結局、本当の意味で僕とAqoursが1つになる事は不可能だ。9人と10人目との境には、見えないようで深い深い溝がある事をどうしても忘れられない。だから僕は"10人目のAqours"が『ファンのみんな』のような、ふわっとした、ある意味では軽い言葉だと感じるのかもしれない。(軽いという表現は誤解を招くかもしれませんが、一人一人がAqoursである事に自覚を持って日々夢を追いかけながら過ごす、って在り方を"10人目のAqours"と称するなら、それはとてつもなく重い意味のように感じます。)

 

なんか書いたらスッキリしました。自分がAqoursに対してどんな距離感で接しているのかが分かった気がします。でゎ。

はぁん…穂乃果たむ……

 

 

 半年くらい前に中古で買った μ's Live Collection に今更ながら目を通す。そこで一際異彩を放っているアニメーションPVがある事に気付く。そう、『もぎゅっと"love"で接近中!』である。

このPV、めっちゃ可愛い。可愛いとか言う言葉で形容するのに限界を感じるレベル。可愛い、あざとい、ドキッとするの三拍子が揃ってる。これは映像を見てると言うよりも体験に近い感覚だ。

 

続きを読む