ギャン・バギャム・ソルドン

一打粉砕に怒喝の心力を込め、万物を叩き割る剛剣の刃を生み出さん

自分

自分とそれ以外の人間は絶対に違う存在だと言うのは分かってるつもりだし、違うのが当たり前なんだからそれぞれのスタンスで居続ければいいと思ってはいる。他人のそういう人間としての核の部分に自分の入り込む余地は恐らくないし、僕も自分の深いところにある自我に、そこまで他人が居るのかと言われたら、居ないと思いたい。

ここまで書いたら、この前書いた『自分と他人の境界』で書いた事と矛盾してるわなと自分でも思うけど。他人の考えを自分なりに解釈して更に取捨選択したものを自分の一部として取り込むと考えたら、その寄せ集めで出来た自我を『自分』と言い張っても良いのかなと思ったので、今回はそうします。あと、こういう自我の話をするの僕は割と好きなのでつらつら書いていきます。

もちろん、『あぁ、この人は少しだけ僕と似てるのかもしれないな…』って思うことはあるんだけど、それは僕がその人を勝手に解釈して、似てるかもと僕が決め付けてるだけだと思うし。結局、似てるかもと思うのは、他人の一部と自分の一部がほんの少しだけ重なって見えるからなのかな。ラブライブに対するスタンスが僕と似通ってる人を偶に見かけるけど、もっと広く、アニメに対するスタンス、趣味に対するスタンス、生き方に対するスタンス、とか領域を広げていけば行くほどに、僕はこの人とは分かり合えないなって気持ちがどんどん強くなっていきます。それはしょうがないし、当たり前の事ですが。

僕はあなたの事を全然分からないけど、この考えは好きだよって思うことが多々あります。だからか、多分僕も人から「あなたの事はあまりよく知らないけど、それでもあなたのこの一部分だけは好感が持てるかもしれません。」みたいな反応を求めてしまうんだろうな~。他人は自分の思い通りに動かない存在なので、何かを求めるということは不毛なんですけどね。分かったフリをされるのも、分かったフリをするのもやっぱり好きになれないんですけど、『自分はあなたの事を分かったフリをしています』って自覚を持つことは出来るし、そういう自覚の伴った在り方が、僕は好きなんだろうな〜ってめっちゃ思います。そういう自覚って、余り人間の表面に出ない気もしますが。

人と関わるのって楽しいし、だからこそ僕はTwitterをやっている訳ですけど。そこに重きを置きすぎるのも僕は違うなと思ってしまうし、そのバランスを取るのって難しい。人との関わり合いの中で僕は誰の色にも染まりたくないし、染まるとしても自分で選択した結果として『○○さんの考えに自分が染められつつあるな』って自覚を持っていたい。

誰かが僕のスタンスに不満を覚えようが、それは勝手で、僕の在り方とかこの文章とかに文句を付けるのも好きにすればいいんですけど、僕にはその行為に対して、受け入れる・跳ね除ける・文句で返すみたいな権利があるので、まぁ好きにして下さいみたいな事をいつも思ってます。僕はあなたではないのであなたの思い通りには動きませんけどね。という、独り言。