ギャン・バギャム・ソルドン

一打粉砕に怒喝の心力を込め、万物を叩き割る剛剣の刃を生み出さん

映画 若おかみは小学生!の感想

若おかみは小学生!の映画を見てきました。TVアニメの1話は配信で見てたんですけど、全く面白くなかったので最初は映画に興味はありませんでした。でも、TLでの評判を見てたら興味が出てきて。作品の受け手として信頼してる人間がイマイチ煮え切らない感情を吐露してる一方で、「泣いたー!」とか「感動したー!」って感想を持ってる人がFF内外含め多く見られて、これは自分の目で確かめるしかないなと。珍しくワクワクしながら映画館に向かいました。という訳で、少しだけ感想を綴ろうと思います。

端的に言うなら、『胸が痛むアニメ』でした。めっちゃ泣きました。そらもう、目が真っ赤になるくらいには。感動した…と言っていいのかは分からない。と言うか、本当は言いたくない。確かに、心に深く響いたから僕は泣いたのだろうけど、話の重さとかおっこの感じていた辛さを考えると、この映画に向かって素直に『感動した』とか『良かった』って言葉を投げるのがものすごく躊躇われる。そのくらい辛い。映画のクオリティに対して『良かった』って言葉を言うのは理解できるけど、お話に対して『良かった』って言葉を言える人間の気持ちが、僕にはさっぱり分からなかった。

両親を失った少女が、その『死』という現実から目を逸らしながら旅館の手伝いをしてる姿は辛いものがあったし、それによって人の幸せそうな顔を見なければいけないというのは、視聴者としてはかなり辛かった。この映画を見て自分が流した涙の理由の9割は、『辛い』って感情に由来してたと思う。

自分の両親を殺した張本人を目の前にして、憎しみという感情を見せなかったおっこの心は、美しかったかもしれないし、それが美徳として描かれているのも分かる。だけど、誰かを妬ましいと思う気持ちや憎たらしいと思う気持ちは、誰しもの心に自然と芽生えてしまう感情だと僕は思うし、おっこの心にそう言った感情が無い事が、余りに悲しかった。春の屋の温泉は誰も拒まないかもしれないけど、関織子には目の前の人間を拒絶する権利がある筈で。大事なのは、関織子自身がどう思ってるかじゃないのかって思わざるを得なかった。いや、勿論12歳の少女にその権利の行使を選択させるってのも重すぎる話だと思うけどさ。

自分自身が『関織子』である事に『いえ』と応えるシーンも心が痛む。『両親の死』という残酷すぎて受け止めきれない現実から目を逸らし続けた結果、自分が両親の娘であった事すら否定してしまうのかと。その応えはおっこの心が働かせた『自衛』だったとしても、両親と過ごした思い出は胸に沢山あった筈なのに、それを全部引っ括めてまで、自分は両親の娘ではなかったとこの娘は宣うのかと。残酷だった。

最後になるけど、自分には重すぎて辛かったです。結局、おっこがそれで良いのなら、自身の境遇を見つめて幸せだと言えるなら、それが1番なのだろう。そしたら、僕がここに書いてる文章に何の意味もない。でも、12歳の美少女キャラクターに余りに重たい運命を背負わせた人間が、この世界に確かに存在していて。「おっこにとって、これが幸せなのだろう」と2次元の世界の外側から決め付けている大人が絶対に居る。この事実に、受け手である僕の心は少しだけ痛むのでした。キャラクターに人権はない。

 

P.S.

目の前に居たおっこが事故の当事者であるとはそれは思わないだろうけど、自分が両親の命を奪っておきながら、その家族の一人娘が生きていた事を『救い』と言ってしまうおじさんには腹が立ちました。この先1人で生きなきゃならない娘が、どんな気持ちでこの先の人生を過ごしていくのかお前には分かるのかよって怒り。お前にとっては救いだったかもしれないけど、おっこにとってそれは本当に救いだったのか、考えるべきじゃないのかよっていう。僕には難儀な作品でした。