ギャン・バギャム・ソルドン

一打粉砕に怒喝の心力を込め、万物を叩き割る剛剣の刃を生み出さん

自分と他人の境界

自分の考えとか自分はこう思うとか、よく言ってしまうけど、果たして自分の言う"自分"の中には本当に自分があるのだろうか。

生まれた時から周りには他人が溢れていて、周りの環境にどうしようもなく影響されながら自我が形成されていく。どんな人間になりたいのか、そこに自由は、選択肢はあったのだろうか、多分無かったと思う。もしあったとしても、僕は自分自身がその選択をしていたという自覚が全く無い。物心付いた時から15年ほど、そんな生き方をしていたと思う。今でもその生き方は変わっていない、ただ周りの環境や周囲の人間を自分で取捨選択できるようになったことだけが、昔との違いかもしれない。他人の言葉とか考えに触れて『良い』と思ったものが、自分の一部分になっていく。自分が"自分"だと思っていた部分は、よーく見つめてみると他人の一部が寄せ集ったものだったりするのかもしれない。

でも、それはそれで凄く素敵だなと思うのも事実だ。1人の人間の背後に、生まれ育った環境、関わってきた人が居る。背後にあるものはハッキリとは認識出来ないけど、何とな~くその人の文面や行動からぼや~っと感じ取れる気がする。だから僕は人の頭の中が曝け出たような文章が好きなのかもしれない。

一方で、これは心の話。Aqoursの3rdライブで『4thライブが東京ドームで行われる』と発表があった時、嬉しい気持ちが湧き上がると共に、自分がとても誇らしい気持ちになった事を強く覚えている。別に僕が凄い訳ではない事を頭では理解している筈なんだけど、でも何故か誇らしくなってしまう。自分はただの享受される側の一人というだけなのに誇らしくなるのって、普通に考えるとおかしな話だと思う。多分、自分と他人を同一視してしまってるのかな。人と人の間には物理的な距離があって、頭では自分と他人を区別して考えられる。だけど、心の奥底の精神的な部分では、自分と他人の間にハッキリとした境界線は引けないのかもしれない。

結局、他人の一部の集合体を"自分"と僕は呼んでいるに過ぎない。たとえ、自分が周りの環境や他人の一部によって造り上げられた存在だとしても、それは唯一無二で再現性の無いものだから、辛うじて"自分"と呼べているのだろう。

自分の中に居続ける他人から目を逸らすことは出来るけど、自分がさも誰からも影響を受けていない風な振る舞いはしたくない。自分の考えが常に他人から影響を受けている事に、僕はずっと自覚的でありたい。

 

…………という話をはねバド!を読んでからずっと考えていました。