ギャン・バギャム・ソルドン

一打粉砕に怒喝の心力を込め、万物を叩き割る剛剣の刃を生み出さん

歌い繋いでいくこと 〜エマ・ヴェルデちゃんのキズナエピソードを読んで〜

2ndライブが終わり、スクスタも1周年という訳で、虹ヶ咲のキズナエビソードを読んでいます。その中でも特にエマちゃんのお話に思うところがあったので、簡単に書き残しておきます。

エピソードのあらすじはこうです。『エマちゃんがある写真館の跡取りの女の子に出会う。その女の子はスクールアイドルをしていて、なんとエマちゃんが日本でスクールアイドルを志す切っ掛けになった曲を歌っていた。その子の引退ライブを期に、その切っ掛けの曲をエマちゃんが受け継ぐことになる。』と言うものです。良い話になっているので、細かい話はゲームをプレイしてくれたらと思います。(スクスタは国民の三大義務の一つに数えられているので)

まず、この話を見て私はとても珍しいと思いました。ラブライブの楽曲と言えば、生まれた時から物語と共にあり、その物語を通じてキャラが抱えた感情だったり、その話自身を曲に暗に織り込む事が多い印象があります。しかし、今回の話にはそれが無いように見えます。勿論、エマちゃんが楽曲を受け継ぐという物語も、この曲が好きだというエマちゃんの熱い気持ちもあります。ですが少なくとも、スクスタの世界で『哀温ノ詩』が生まれ落ちた瞬間、そこにエマちゃんの気持ちは恐らく1mmも無かった。詩に歴史あり。誰かの曲が長い時間を経てエマちゃんの曲になっていく。ラブライブの文法を考えると、これは驚くべき事です。

エマちゃんの言葉を借りるなら、この話はとってもエモエモな物に仕上がっています。エピソードではエマちゃんやマイちゃん*1の気持ちにフォーカスが当たり涙を誘ってくるのですが、どちらかと言えば私はアイドルの曲が別の誰かの手に渡り、歌い継がれていく行為そのものに感動を覚えました。

少し話が逸れますが、現実ではこの歌い継いでいくという行いはとても難しい(もはや不可能)と感じています。私自身アイドルの解散ライブに何度か立ち会った経験があります。このライブを最後にアイドルに会えなくなるのも寂しいのですが、それと同等かそれ以上に、そのアイドルの楽曲が誰にも歌われなくなる事の寂しさもあります。誰にも歌われなくなった曲は緩やかに、緩やかに人から忘れられていきます。これは思っている以上に悲しいことです。

ですので、マイちゃんの『哀温ノ詩』をここで終わらせたくないという気持ちにはこれ以上なく共感しましたし、この曲がマイちゃんの手を離れ、エマちゃんの元にやってくることに対して、少しの安堵もありました。想像ですが、あの時マイちゃんの引退ライブを見ていたファンの中にも、私と似たような感情を抱いた人が居たのだろうと思います。

『哀温ノ詩』が世界から忘れ去られること無く、新しい居場所を得られた。これは本当に嬉しいことです。そして、そんな楽曲を受け継いでいくスクールアイドル達の繋がりもまた同様に尊いものだと思わずには居られませんでした。

*1:写真館の跡取りの子。スクールアイドルをしている。