ギャン・バギャム・ソルドン

一打粉砕に怒喝の心力を込め、万物を叩き割る剛剣の刃を生み出さん

声優を好きになる

自分は「人」が好きなのか「作品」が好きなのかと問われたら、作品だと答える人間だと思う。僕はAqoursが大好きだけど、その理由はAqoursがサンシャイン!!に基いたグループであるから、というのが一番大きい。勿論、彼女たちの人間的な素晴らしさも理由の一つではあるけど、それを踏まえてもだ。キャストというのは、飽くまでも「作品」とその「ファン」の架け橋に表立ってなってくれる存在、というような認識が僕の中には多少ある。だから、Aqours9人のキャストのラブライブ以外の仕事を、熱心に追ってもいない。それを通して素晴らしい作品に巡り会う事もできるだろうけど、別にキャストに拘らなくても、素晴らしい作品には出会える。

と言うのが最近までの姿勢だったんだけど、それがだいぶ崩れてきてる感じがする。こうなった理由の大半は虹ヶ咲にある。何だかんだ、虹ヶ咲の活動では現状、キャラクターよりも声優のパーソナルな面を見る事の方が多いと思う。虹ヶ咲学園そのものが好きと言うより(勿論、好きではあるが)、虹ヶ咲学園のキャストが好きという状況になってる。これが良い事なのか悪い事なのかは分からない。ただ、スクスタが配信されたり、虹ヶ咲の活動を今後見ていくに連れて、この印象は変わっていくとは思う。

ともあれ、そういう経緯があり、もっとみんなの事が知りたいって思いから、楠木ともりさんが出ているという理由でGGOを見た。同様に、鬼頭明里さんが出てるという理由でブレンド・Sを見返したり、久保田未夢さんが出ているという理由でプリパラも見ている。こういう事をすると複雑な気持ちになる。自分の好きな声優は、必ずしも自分が面白いと想える作品に出てくれる訳ではない。あと、自分の好きな人が精一杯演じている作品を素晴らしいと思えない自分の心に、結構モヤモヤする。いや、別に上に挙げた作品が好きじゃないとかそういう話では無いんだけど。プリパラは結構好きだし、ブレンド・Sはまぁまぁ好きだし、GGOは嫌いじゃない。

まぁ、少しだけGGOの話をすると、ともりるが可愛い声で『ぶっ殺す!』みたいな言葉を使ってるのは聞いてて楽しいし、銃やナイフを使ったバトル物でありながら、ゲームの中で戦っているから、流血の描写が無かったのが僕に優しくて良かった。拙者、グロい表現を見るのが割と無理。あと5話でカッコいいシーンが幾つかあったのも良かった。でもまぁ、お話としては余り入り込めなかったかな~と思う。なんと言うか、自分の知らない感情で物語が構成されてて、俺には分からない話だなと思った。デスゲームに参加できなかった事を悔み切れないから、ゲームで死んだら現実の自分も死ぬぜ!って辺りとか。いや、ピトさんは狂ってるので、多分この辺の感情は意図的に共感できないように話が作られてるのかなと思うけど、ただ自分としては物語に於いて救われる人間の感情は、身近にあってほしいなと願う部分もあるので、そこで入り込めなかったなぁ~と思います。あっ、GGOでともりるが実際にサバゲーをしにいく動画がyoutubeにあるんですけど、それはめっちゃ面白かったです。

声優の追い掛けをしてる人が、こういうモヤモヤした感情をどうやって処理してるのかは結構気になりますね。それとも、こういう感情を一切持たずに追い掛けをしてるのかな。自分はかなり無責任に人を好きになるし、娯楽なのでそれでも良いと思ってるけど、それでも何故かこの思いは拭いきれない。結局、自分は虹ヶ咲の声優のことをド直球に「人間」として見ているんだと思う。ステージの上に立つ演者と、ステージの下に居る人間の間柄に、こういう観点や感情を持ち込んでしまう事には些か罪悪感を覚えてしまうけど、楽しい。

自分の好きな人が、自分が素晴らしいと思える作品に出演してくれる事の喜びを綴った文章をこの前読んだんだけど、今ならその気持ちがちょっとは分かるのかなと思う。そんな戸惑いに溢れている、12月の中旬。